離婚に至るまでの経緯⎟38歳男性の実体験

離婚の記録
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このブログでは38歳で離婚を経験した男が人生を立て直すまでの過程を正直に書いています。
この記事は、その最初の出来事である離婚に至る経緯を振り返ります。

今振り返って思うこと

今振り返ると、当時のじぶんは余裕がなく目の前の問題だけを追いかけていました。
この話は誰かを責めたり、自分や離婚を正当化するためのものではありません。
離婚を決断した一人の男がなぜその判断に至ったかを今の視点で整理した記録です。

同じように悩んでいる人にとって、何か一つでも考えるきっかけになればと思い書いています。

違和感の始まり

私達は大学で出会い、私から好きになり8年ほど付き合いました。結婚してからは10年が経っていました。一見すると特に問題のない幸せな家庭に見えていたと思います。

結婚するまでに1度か2度彼女から別れ話をされたことがありました。それでも何とか乗り越えて結婚に至りました。何か大きな出来事があったわけではありません。今思うと言葉にしづらい違和感は結婚した頃からあったように感じます。

仕事の状況がお互いに変わり、年数が経つにつれ妻の収入が大幅に多くなり収入面での立場が以前と大きく違ってきました。それ自体を問題だと思っていたわけではありませんが、自分の中でうまく整理できない感覚がありました。

夫婦としての距離感も少しずつ変わっていきました。セックスレスという言葉で表せるのかもしれませんが、それ以上に心の距離を感じるようになっていました。

待望の子どもが生まれてから生活の重心が大きく変わりました。収入面の事情もあり、妻は仕事を中心に私は仕事では残業をせず家事や育児を担う時間が多くなっていきました。
役割としては自然な流れだっと思います。ただ、その中で自分の立ち位置について考えることが増えていきました。

さらに、子どもが生まれて以降、私に向けられる言葉や態度のきつさを感じる場面が増え、精神的・身体的につらいと感じる出来事もありました。

どれか一つが決定打だったわけではありません。ただ、こうしたことが重なった時、違和感として残り続けていました。

この時点では離婚を選択肢として考えてはいませんでした、むしろ関係をどうにか修復できないかと考えていました。

修復しようとしたこと

違和感を感じながらも、この関係をすぐに終わらせるつもりはありませんでした。むしろできることはやろうと思っていました。

何度か話し合いをしようとしました。ただ話題に出すたびに空気が重くなり、受け入れてもらえない反応を感じることもありました。その時、向き合おうとすること自体が望まれていないのかもしれないと感じました。

それなら、と自分が我慢すればいいのだと強く思うようになりました。波風を立てないことが家庭を守ることだと考えていました。

自分の考えや態度も見直そうともしました。できるだけ穏やかに、家のことなどで相手の負担にならないように振る舞っていたと思います。

どれも間違いだったとは思っていません。ただ、その中で自分の気持ちを後回しにし続けていたことに、少しずつ限界を感じるようになっていました。

限界を感じた瞬間

修復しようと努める中で、私は少しずつ、自分の気持ちを後回しにすることに慣れていきました。考えないようにすること、感じないようにすることがこの関係を続けるための方法になっていたのだと思います。

向き合おうとするたびに距離を感じ、自分の言葉や気持ちが、ここにはもう居場所を持っていないように思える瞬間が増えていきました。

あるとき、ふとした瞬間に、この人とこれから先の人生を共にしている自分の姿が、どうしても想像できなくなりました。強い感情があったわけではありません。むしろ、静かで、逃げ場のない感覚でした。

その時初めて、この関係を守るために自分を削り続けることが、正しい選択ではないのかもしれないと思いました。
まだ何かを決断したわけではありません。それでも、これ以上自分を押し殺したままではいられない、そう感じた瞬間でした。

今思えば、この時点で、私はすでに限界を迎えていたのだと思います。

選んだ決断と、その代償

限界を感じながらも、すぐに離婚という選択をしたわけではありませんでした。
家族のこと、子どものこと、そしてこれまで積み重ねてきた時間を考えると、簡単に答えを出せる状況ではなかったからです。

夫婦としての関係が成り立たなくなっていく中で、私は一度、妻に関係を修復したいという思いを伝えました。しかし返ってきたのは、これ以上夫婦としての関係を持つつもりはないこと、それでもいいなら関係を続ける、そうでなければ外に気持ちを向けても構わない、そういった趣旨の言葉でした。
その瞬間、私の中で、夫婦としての関係はすでに形だけのものになっているのだと感じました。

当時うまくはいきませんでしたが、私たちは二人目の子どもを望み、人工授精による治療にも向き合っていました。その状況の中で、これ以上自分を追い込んでいく人生を続けられない、そう感じたことも事実です。

そして、私は初めてこの関係の外に自分の気持ちを向ける選択をしました。それが発覚し、私たちの関係は決定的なものとなりました。ただすぐに離婚という形にはなりませんでした。子どもの小学校受験が終わるまでは離婚に応じない、そう告げられたからです。不貞行為があった以上、私は決して有利な立場ではありませんでした。それでも、元の関係に戻ることはできないと、はっきり感じていました。

この選択が正しかったかどうかは、今でも簡単に答えが出ません。
ただ、衝動ではなく自分で選んだ決断だったこと、
そしてその代償も、すべて自分で引き受ける覚悟があったことだけは確かです。

この決断は、私の人生を立て直すきっかけになると同時に、さらに長い時間を要する現実の始まりでもありました。

離婚できなかった一年

離婚を決意してからも、私はすぐに家を出ることができませんでした。子どもの小学校受験が終わるまでは離婚に応じない、そう告げられていたからです。

家の中では、夫婦としての会話はほとんどなくなっていました。生活に必要な連絡だけが淡々と交わされ、同じ空間にいながら、互いに存在しないものとして過ごしているような日々でした。
受験に関わることで衝突する場面もありましたが、それ以上に苦しかったのは、すべての判断が「離婚できない」という前提の上に積み重なっていたことでした。

最初は子どもと向き合う時間だけが、かろうじて自分をこの家に繋ぎ止めていたように思います。それ以外の時間はここに居場所はないという感覚でした。

この一年の間、私にはこの関係の外に自分の気持ちを保つ人がいました。それがなければ正直、この時間を乗り越えることはできなかったと思います。その関係の中で、将来を考えるのであれば、離婚後は息子と距離を取る覚悟が必要だという話も出ていました。それは簡単に受け入れられるものではありませんでした。それでもその覚悟を持つことが、新しい関係と向き合うための誠意なのだと思い、受け止めることにしました。先の見えない状況の中で、期待と不安、子どもと離れる喪失感、罪悪感と安堵が入り混じった感情を抱き続けていました。

離婚を決断するにあたって、私のなかで一番大きかったのは、子どもと離れることへの恐怖でした。子どもと会えなくなるかもしれない、一緒に過ごせない時間が増えていくかもしれない。今までは何よりも大事にしてきた子どもの成長を見れない。その想像だけで、胸が締め付けられるような苦しさがありました。

一方で、このままの関係の中に留まり続けることは、自分の気持ちを押し殺し続ける人生を選ぶことでもありました。子どものそばにいられたとしても、自分らしさを失ったままで生きていくことになる。そのことにも強い違和感と恐怖を感じていました。

離婚して新たな相手を選んだとして、その先に本当に結ばれるのかはわからない。それでも、少なくとも自分の気持ちに嘘をつかず、自分らしく生きていける可能性は残る。そう考えるようになっていきました。

当時の私は、このまま生き続けるか、すべてを手放し楽になるか、その二択しか見えないほど追い詰められていました。食事も喉を通らず寝ることもできない日が続いていました。

一人で抱え続けることに限界を感じ、私はカウンセリングを受けることを選びました。誰かに正解を教えてほしかったわけではありません。ただ、自分がどれほど苦しんでいるのかを、初めて言葉にする場所が必要だったのだと思います。その時間を通して、私はようやく、自分が逃げたいのではなく、自分を失わずに生きたいのだと気づきました。

その後もすぐに状況が好転したわけではありませんでした。家の中の空気は変わらず、将来への不安も消えませんでした。離婚の現実や新しい関係の存在も私の心に大きく影響していました。その人は、私にとってかけがえのない存在でした。関係が順調な日ばかりではなく、眠れない夜や、食事が喉を通らない日もありました。気持ちの波も次第に大きくなり、その揺れがそのまま関係に影響してしまうことが怖かったのだと思います。

これ以上、負担をかけたくない。その思いもあり、半年ほど経った頃、私は精神科を受診しました。

診断名がついたわけではありません。ただ、医師から眠る薬と、気持ちを整えるための薬が処方されました。

自分が精神的な病気を診断されることへの不安もあり、精神科に行くことには抵抗がありました。それでも、崩れずに日常を続けるために、何かに頼る必要があると感じていました。生き続けるための選択だったのだと思います。
医師に話を聞いてもらい、薬を飲み始めたことで劇的に何かが変わったわけではありません。それでもあの時、受診したことは間違っていなかったと、今は思っています。

離婚できないまま過ごしたこの一年は苦しい時間でしたが、同時に息子と会えなくなる未来が少しずつ現実として近づいてくる時間でもありました。その二つが同時に迫ってくる感覚が、私をさらに追い込んでいたのだと思います。

すべてが終わったあとに残ったもの

子どもの受験が終わり、家を出て一人になりました。
生活としての夫婦関係は終わりましたが、離婚という手続きはまだ完了していません。すべてが終わったはずなのに、何かが始まった実感は今もありません。

離婚という区切りは、もう少し先にあります。子どもの入学を控え、生活への影響をできるだけ小さくしたいと考えた結果、離婚届を出す時期を慎重に選んでいます。

新しい生活が始まっというより、ただ環境が変わっただけ、そんな感覚に近いです。毎日は静かで、誰かと衝突することもありません。自分の存在を問い直す時間が増えました。

離婚が成立するまでは、ローンの支払いも続いています。現実的な事情から、今は実家で暮らしています。自立した再出発というより、ただ生活を維持しているだけの時間です。ひとりになったはずなのに、どこにも辿り着いていないような感覚が残っています。

この時期、私を支えてくれていた関係も終わりを迎えました。今は詳しく書きませんが、あの時間がなければ、ここまで来ることはできなかったと思います。正直に言えば、この時期、子どもと離れていく現実よりも、支えになっていた関係を失った喪失のほうが、私には強くこたえていました。愛情を比べていた結果というよりは、自分がどれほど追い詰められ、誰かに寄りかかって生きていたのかを突きつけられた感覚でした。私を支えてくれたことに今でも感謝しています。

子どもの存在は、大切でした。ただ、これから先、もう会えない可能性が高いことは頭では理解していました。自分で選んできた結果です。それでも、成長をそばで見守れない現実を受け入れることは簡単ではありません。

家族という形も、将来の約束も、そして自分の拠り所だった関係も、すべてが一度に手の中からなくなりました。残ったのは、静かな時間と、自分ひとりの感情だけです。

それでも、この時間の中で私は、生きています。前を向けているわけでも、何かを乗り越えた実感があったわけでもありません。ただ、立ち止まりながらも、息をして、日々をやり過ごしています。

すべてが終わったあとに残ったのは、答えではなく、空白でした。
この空白をどう埋めていくのか、それはまだ考えられる段階ではありません。ただ、誰かのために生きたいという感情だけは、消えずに残っています。それが誰なのか、どういう形なのかは、まだ分かりません。それでも、その感情が自分の中にあることだけは確かでした。

空白の中で、生き続けている

家を出てから、生活は静かになりました。
手続きはまだ残っていますが、形としての夫婦関係は終わっています。
今は実家で暮らしながら、仕事をし、食事をし、眠る。特別なことは起きていません。

前向きになれたわけでも、立ち直れたわけでもありません。ただ、大きく崩れることもなく、日々を過ごしています。

答えはまだ出ていません。
それでも、この空白のなかで、生き続けています。
それが、いまの現在地です。

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